人生とは

友からのことば:ご感想

from 2011.2.7 コピーライター/文案業 二階堂 薫

先日、神戸の賀川記念館でおこなわれた特別ゼミを受講した折、《グランドデザイナー》という言葉が目に飛びこんできました。

賀川記念館は、大正~昭和時代のキリスト教社会運動家・社会改良家である賀川豊彦氏とその仲間たちによる業績やスピリットを受け継ぎ、地域福祉に努め、平和を望み、共に生きる社会をつくる活動拠点。

百年余り前、21歳の敬虔なクリスチャン・賀川豊彦氏は、日本で最も大きかったという神戸のスラム街へわけ入ります。人々に食事やふとんを与え、医者に診せるなど貧困からの救済、防貧活動に奔走。医療、保育、授産、養老、住宅、簡易宿泊、仕事の紹介など日々のいとなみに直結するさまざまな領域の社会事業をおこし広め、労働運動や人権運動、組合運動、平和運動などを指導しました。健康保健や雇用保険、生活協同組合の設立など、現代ではあたりまえだと思われている社会の仕組みをととのえた彼には志を共有する仲間が多数いて、自分たちを救霊団とよんでいたのだそうです。いわゆるチーム。

と、彼の偉業を単にたたえたいわけではなくて。時代を開拓する先駆者にあたる賀川豊彦氏の意図と結果の、結果部分を書いておきたいと考えました。賀川豊彦氏の幅広い活動とそらさんが歩む道との共通項が多々あるように思えてならなかったこと、人々の暮らしの基盤をととのえる《グランドデザイナー》という響きにひきよせられたこと、それはそらさんの生き方を示す言葉に近いのではと感じたことなどを記すにあたって。

そらさんは、ヒーラーやカウンセラー、リーダー、クレアボヤント/透視能力者…でありながらそれらの枠をはみ出した、とても深くて大きなナニカ。実際にそらさんと語り合い、そらさんという存在を表すオリジナルワードがあるにちがいないと確信しつつ、総合的な存在であるため端的には表現しづらいなぁ、と少なからずこまっています。

《グランドデザイン》は全体構想、全体像、広くはあるべき姿などという意味で使われています。ここからは私見ですが…あらゆる領域を包含して、物理的・心理的境界もジャッジも介入しない宇宙的な視野でものごとを観察し、課題を発見して適切な方法で解決、よりよき未来を創造するために行動するのが《グランドデザイナー》。

そう、《グランドデザイナー》はだれもがなれるし、これからみんなで目指していきたい姿でもある。包括的、統合的、全体的、広範囲…常識というメガネを通して眺めるとスケールが大きすぎるため、後に続くのがむずかしいという悩ましさも秘めています。

貧困からの救済・予防という、世の中の流れや時代背景が色濃く投影された問題点を解決し続けた賀川豊彦氏。次々に生まれる課題や悩みが目に見えない精神世界へシフトしている今、求められているのは人々の心を静かに照らし、気づきを与え、時には背中をぐいと押す(サポートする)そらさんのような存在に他なりません。

アートディレクター・グラフィックデザイナーとして、そらさんが広告の世界で生きてこられたことはまぎれもない事実。人生を転換したとはおっしゃるけれど、《グランドデザイナー》が私の理解で正しければ、現在は以前より広大なフィールドを包むデザイナーとして活動しておられるような気がします。

ちなみに、私はこの世のいかなる宗教からも自由です。そらさんの紹介文をつづるにあたって、盛大にほめちぎる手法もある中、私は自身の経験にもとづく引き出しを開けてみることにしました。できるかぎり客観的に、しみじみと伝わればいいなと願っています。

最後に、そらさん、いつもありがとう。そらの会も、個人セッションも、友人としても。あなたのおかげで私はこれから、私としてまっすぐに生きてゆける気がします。


*現在、過去の様々なワークや特別な技能を使うことなく、

 偏りなく制限なく何かを特別だとか正しものがあるという視点ではなく

 全国で多くの方に向きあい続けています。 

あなたは、『自分を認めたい』と思っているのではないだろうか。

『他者を認めたい』とも思っているのではないだろうか。

 

家族や友人たち、あなたが関わる方々と、

優しく穏やかな関係でいたいと望んでいるのではないだろうか。

 

でも、何かしらのトラブルは起こり続けているだろうし、

その度に解決してゆくしかないと思っているのかもしれない。

 

 

かつての私はそうだった。

問題が起きるたびに何とか解決してきた。

時には専門家に頼って、解決方法を学んだりもした。

 

けれど、色々な出来事は起き続けて、

問題対処に限界を感じた時、

全国を巡るカウンセラーのそらさんに出逢った。

 

それまでは考えもしなかったことだが、

私に必要だったのは、

問題に向き合うことではなく、人生に向き合うことだった。

 

そんなことを教えてくれる人は、

それまでの人生で、誰一人としていなかった。

 

親も教師も専門家も、

問題を解決する手法は教えてくれても、

『人生に本当に必要なことは何か…』なんて、

誰も教えてくれなかった。

 

というよりも、皆そんなモノを知らなかったのだろう。

皆それぞれにベストを尽くして、

一生懸命に生きているけれど、

なかなか望む通りの人生にはなっていないのではないかと思う。

 

 

私は、本当の自分自身〈本質〉を知りたかったし、

そらさんの言う、

自己否定も他者否定もない世界を見てみたいと思った。

 

そして、それはリアルにあった。

決して理想論や変な宗教ではない。

 

それを知るのに、修行が必要なわけでも、

特別な能力がいるわけでもない。

現に私は普通の主婦だしね(笑)

 

ただ、自分や他者の人生を感じる場は必要だ。

他者がいるからこそ、自分自身に気がつけるし、

他者の人生を知るからこそ、自分の人生というモノが見えてくる。

 

そらさんが創る『本質的な叡智のバトン』という場は、

否定なく、他者や自分というモノを感じることができる。

だからこそ、そこに居る皆に様々な気づきが起きる。

 

こんな場を、私は他に知らない。

 

私は『本質的な叡智のバトン』に何度も参加しているが、

一度だけという方もたくさんいるし、

何年かぶりに参加するという方もいる。

 

別に続けて参加しなければならないわけではないし、

本当にその方次第だ。

 

何の制限もない。

 

 

もしあなたが、問題対処や人間関係に疲れているなら、

本当の自分自身を知りたい、

人生というモノを知りたいと望んでほしい。

 

その先には、あなたがこれまで信じていた世界とは

全く違う世界が広がっているから。

 

おしぶち ようこ

http://ameblo.jp/essence-v/

8月5日から、7日まで新潟に行っていた。

記事を書くのはあまり得意ではないから、

とてもドキドキしている。

けれど、この3日間が私にとって

とてつもなく幸せな時間だったので書いてみようと思った。

前置きとして、長くなると伝えておきます。

 

今回、5月ごろまで迷ってはいたけど行けないと思っていた新潟に行くことになった。

理由は、本質的な叡智のバトンというイベントに参加するためだった。

新潟は遠いし旅費も掛かる、仕事も休めるか分からない、いろいろな制限の中で決断できたのは

私の回りに私の背中を押してくれる人達が現れたからだった。

その人たちに背中を押され、不安な中新潟にやってきた。

 

 

私は、昔からいつ死んでもいいなぁと、どちらかと言えば死にたがりの人間だった。

死にたいと口にして、叱られ、泣かれた事も多々あった。

生きたい人から見れば、なんと馬鹿な事を言っているのかと言われても仕方なかったし、

今もそう思うけどこれが正直な気持ちだった。

そんな思いを抱え、新潟バトンの開かれる咲屋を訪れた。

 

とても面白く、素敵なところだからと、騙されてみようと言う気持ちで。

半信半疑で訪れたそこは、

とても温かく今までにないくらいに居心地のいい所だった。

そこで、集まったみんなと話すにつれ自分の中の

死にたい気持ちが消えていることに気づいた。

今まで色んな所に相談をして、訪ね回ったけれど、

一回も感じたことのない感覚だった。

 

「私、ここに居ていいんだなぁ」

 

そう、初めて出会った人たちばかりの場所で

そう思ったのだ。

 

顔色を伺うこともなく、ただただ話をする。

そこには全く否定がなく穏やかな時間だけが流れていた。

そらさんがバーベキューの火起こしをしているのを

ただ縁側に座って眺めているとき、

みんなは別のところでお話しをしているにも関わらず

全くの疎外感、孤独感も感じなかった。

ただただ、みんなの想いを感じ、これが本当の繋がりなのかとぼんやり考えていた。

みんなの笑顔がとても心地よく、帰りの飛行機でも思い出しては泣いていた。

幸せすぎて泣くってことが本当にあるんだと驚きもした。

本当の意味での繋がりがそこにはある、

何て言うととてもありきたりで怪しい感じになってしまうのだけど(笑)

 

もし今、私と同じように悩み葛藤している人は

ぜひそらさんに会って欲しい。

否定がなく、誰とも比べることなく「そこにいるだけでいい」という

事実があることをどうか体感して欲しい。

 

こんな下手な記事でも、必要な人に届くことを信じて。

そして、新潟のバトンで出会い、お世話になった方たちに大好きを込めて

 

大島 千

新潟から帰ってきて やっと涙が収まってきました。

なんとか 感想文書いてみました。

長文です。

しかも まだ 書き足りないくらい充実した日々でした。

ありがとうございましたm(__)m

みなさんに よろしくお伝えください。

以下 本質的な叡智のバトンの感想です。

 

 

 

甲状腺の病気になり 仕事やめて 実家に戻り

毎日ヒマでした。

ヒマだからしかたなく… そらさんのブログ読んでみるものの

さっぱり 意味がわからず…(笑)

 

7月釧路に四年ぶりに 来るょ。と友達からの連絡。

遊ぶ(呑む)口実として、そらさんと友達に会いにいきました。

四年ぶりに (数年に一度) 会う そらさんとは 呑み友達程度で

その度に「今 わたし こうしてるょ」って 報告するだけであり

その時 そらさんから もらう 確定のない 一言 (ヒント)を

宿題にする場でもありました。

今回の 釧路での宿題は珍しく「新潟にくるといいよ~」っていう

初めての具体的な内容。

とりあえず ヒマなので 参加することに。(笑)

 

 

 

到着後

北海道にはない家屋の雰囲気に感動していたのですが…

あれ?

みんなどうした?

その話…ここで? 聞こえてくるけど 聞いて良いのか?

私がその話 するなら ごくごく親しい友人限定 。

しかも 話す友人と話さない友人 にわけて…

話す内容も わけて… 場所も考えて…

って…

えっ!

みんな すんなり 話ししてる!

はじめてここで逢ったんだよね?全国から集まってきたのだから…

 

 

初日は午後に着いたから みんなが話している内容を聞いて

良いのか悪いのか わからず とりあえず

参加している雰囲気をだすために(笑) 『盗み聞きします!』って 宣言して

ゴロゴロと横になって聞いてました。

(後に その宣言や行為が なんら必要がない場だったコトに気がつきます。

だって ジャッチや妙な同意がないから 思う存分 話せる環境なのです

グチなどではなく、人生の神秘?みたいな話。だけど怪しくない話しをね)

2日目 初めての本質的な叡智のバトンに参加して

自分の中に 初めて疑問がでてきて

直接 そらさんに聞いて 驚きました。

 

 

なに?! この私に 自己否定があった?!

 

(今まで生きて来た中で 今までにないほど猛烈に甘えて

実家暮らしができている私に?! )

しかも 4年前に離婚した元夫にしたことは

「助けたい」と思ってしていた行動だった?!

そそんなこと 気がつきもしませんでした。

コントロールやジャッジをしているものだと信じていました。

 

よくよく 考えてみると…

助けたい と 思ってしている行為が

自分の考えとは逆の反応がかえってきて

相手に 伝わってない と思い

「なんで わかってくれないの!」って 悲観して感情的になって…。

 

その 繰り返しの数年の中で

「自分の正しさで 相手をコントロールしている」って

自分の行為を否定にむけていきました。

変わらないのだから 自分が悪いのだ…と。

そもそも 『人の人生は完璧』って俗にいうし

(これも そらさんがいう完璧とは 全く違うらしい)

手離そうって思って 自分の選択で夫も手離したことで

自分勝手な私だと否定して信じ込もうとして

「助けたい」って思っていた想いも

封印してしまったよう。

 

どうりで 頭と心が チグハグで…

真ん中の 甲状腺が 悪くなるわけです。

どうりで 自分の免疫が自分を攻撃する…なんていう病気になるはずです。

 

 

(おまけ:これが わかった日が 北海道では七夕8月7日であり

前夫との結婚記念日(ちょうど20年前) というのも

タイミングの絶妙さにも驚きました)

 

 

話しは もどって

どうやら 私はそらさんに

『助けたい』と 思っている 本質の声を

取り戻して もらったようです

否定は作りだしたもので 自分ではなかった…。

しかも 同時に 多くの人の人生を聞いて

『助けたい』という 想いの表現のパターンが

本質によってまったく違うのだ ということを

学びに 新潟に行ったようです。

 

 

本質の表現は それぞれ 驚くほど違っていて

(私の想像以上に)

私は今まで…

本当に本当に 小さな世界にいたことに

気がつかせてもらいました。

 

職場が「助ける行為」の場だから

『助ける』ということを 知っている気になっていました。

「行為の善し悪し」しかみてなかったことに愕然と…しました。

みんなが個性がバラバラだと わかったつもりで

何もわかっていませんでした。

そして 比べて 否定していました。

 

 

これは 咲屋にいた みんなから 教えてもらたこと。

 

 

想いで動くって こんなにも清々しく

こんなにも 当たり前のことだってこと

ほんとうは 否定なんて いらないんだってこと

行為ではないところに みんながいるってこと。

 

 

感謝してもしきれないくらい。

ほんとうに ありがとう\(^o^)/

帰りの バスで 子供とお母さんに席を譲ろうとして

「大丈夫ですょ」って 断られて

前ならそれでも もんもんとして自分を責めるほど

結果に囚われていたけれど

自己否定がない自分に驚き

さらには 「助けたい」が 発動している いつもの自分に気がついて

それだけでいいんだ そう思えて なんだか幸せでした。

 

 

今 帰ってきて やっぱり ヒマな時間を過ごしています (笑)

でも

そらさんのブログは 理解できます (笑)

 

呑み友達に救われて 悔しいけど (笑)

 

 

2017.8 伊藤 千春

『 本質との出逢い、本質的な人生について 』

 

 

わたしがそらさんに出会って、3年半以上となる。

大きな人生の転機を迎えた時、そらさんと出会い

半年の間に、個人セッション、叡智のバトンを含め、四度のセッションで、

わたしは葛藤が外れ、

自由に自分自身で選択できるようになっていた。

 

自由になってからも

化学者であった私の探求は続いたが、そらさんからは

「まだ自分の本質に気づいていないの?」と言われていたぐらい

自分の本質というものは、すべてに現れている私であり

当たり前すぎて、

自分ではなかなか掴めないものだった。

 

 

「本質に気づかなくても、本質で生きている」

この言葉もそらさんから、よく聞いている。

半年後の状態は、

葛藤が外れ、なんの問題もなく

本質を当たり前のように表現している状態になっていたようである。

だから、本質に気づかなくても、

葛藤さえ外れたならば、幸せに生きることはできる。

 

 

しかし『本質的な人生』という観点で見た時、

葛藤が外れただけのわたしは、

オートマティックに本質が現れている状態ではあったけれど、

『意識的に表現する』という状態ではなかった。

 

『意識的に本質を表現する』

それは、想いを『軸』として、

自分の『本質を活用していく人生』となっていく。

それが、わたしらしさが表現されていく人生

すなわち『本質的な人生』なのだろう。

 

『自分のオリジナルな人生』を生きている実感。

 

自分の本質を知る意味は、

自分らしさを人生で意識的に表現できるということにある。

 

 

それは、

自分をそのまま認めることができる人生。

他者をそのまま認めることができる人生。

 

葛藤なく生きることができる人生。

生きている実感をもてる人生。

争うことのない人生。

となっていく。

 

 

いま、『本質的な叡智のバトン』という向き合う場を、

そらさんは、セッションの中心においている。

わたしはこのセッションが

「わたしがそらさんに出会った頃にあればなぁ…」といつも思っている。

それだけこのセッションは、

『葛藤を外す』『自分の本質に気づく』

他者の『全く違う本質を知る』という点で

本当にパワフルなのだ。

 

 

 

だれもが、この世界で、

「自分」というものがたぶん一番わかっていない。

それ故に、苦しんでいるし、自分を否定している。

 

その「自分」=『本質」に気づいていく

最短の道となるセッションだろう。

 

なぜパワフルなのか…

それは多くの人が「向き合う意識」で集っているからである。

 

自分自身(本質)を知る唯一の方法は、

他者を知ること、

他者との本質の違いをそのまま認め、

それぞれが…

比較しようもないほど全く違うオリジナルであるとわかった時に

他者をそのまま認めざるを得なくなっていく。

それは同時に、

自分もそのまま認めるということへと繋がってゆく。

 

『すべての人の本質が違うのだ』ということを認めた時に

『すべては本質から出た行動だった』ということを、

認めることができる。

 

それは人生から否定を失くすだろう。

人生は本質の選択だと肯定へと変化する。

 

わたしも、カウンセラーとなり、

多く人の本質と出会うことができている。

その出会いは、一層深く、

自分を見つめることができるようになっている。

 

また、カウンセリングに来られる様々な方々とのセッションでは、

その人の本質を意識し、

本質を表現して生きることができるようにという

想いを込めてセッションをしている。

素晴らしい本質の方々を、わたしが観ているように

自己否定なく観てほしい…という願い。

 

カウンセラーとしての経験は、

『本質』を深く知る上で貴重な経験となっている。

それでもまだ…

自分のことがわかっていない点がたくさんあることに、

毎回気づかされていることそのものが

実に面白い。

 

人間というものは…本質というものは…

実に深いものである。

 

そして、それはとてもドラマティックだ。

 

自分の本質、様々な人の本質に出会える人生は、

最高の人生であると今、感じている。

 

カウンセラー  まるた博士こと 稲田 宏(工学博士)

http://ameblo.jp/marumarumarumushi/

https://www.facebook.com/hiroshi.inada.940

私が人生に何かを起こしてきた…というよりも

 人生の方が私に

 強烈に問いかけてきているのだと感じました。

 

 

 

2017年2月

初めて福岡での本質的な叡智のバトンに参加しました。

 

事前に友人から話を聞いていて、

年末にそらさんにも実際にお会いしていたので、迷いなく参加を決めました。

 

それまでの私は、概ね満足して生きていたと思います。

しかしそのフラットな満足感は、

快と感じるものだけを手元に置き、そうでないものは

排除してきた私自身の態度と引き換えたものだったようでした。

 

好きなものばかりで周りを固めていった結果、

自分の住む世界を自分で狭めてきてしまっている事には気付きましたが……

今更どうやって変更をかけてよいかわかりませんでした。

 

年を取って偏屈になる、って

こういうことだろうか?

そんな私は本当に幸せなの?

そらさんに出会ったのは、そう思い始めた頃です。

 

お話し会で実際にお話を聞いて、最初は解るようでわからず

もっと自分と人生の事を知りたく

本質的な叡智のバトンの開催をお願いしました。

 

バトンに出てみて、一言で言うと…

 

本当に、何もかもが変わりました。

 

当時の自分の状態が、今では理解できません(笑)

 

それまでの私は他の人に余り興味がなく、

他の人の価値観に意識を傾ける機会もありませんでした。

 

なので、最初は他の参加者の方と自分の違いに愕然としていました。

 

ひたすら彼等とそらさんのやり取りを聴いているのですが…

私の中に彼等の人生のストーリーを解釈するフローチャートが無い!辞書にもない!

何とか真剣に耳を傾けますが、

思考プロセスが働かずに途方に暮れるという状態が続きました。

 

そのうち、その話を聴く私自身の反応が気になり始めました。

自分の中の価値観、ものの見方の偏りが顔を出していることに気が付きます。

 

 

そらさんと直接自分の話する時は、

その辺の思考の偏りを、

核心を外した形でつつかれている感じがしました。

 

他の人の例を出しながら、

絶妙に中心を外して揺さぶられていきます。。。

 

そして色々、何だかよくわからなくなります。。

 

 

面白いのは、人のやり取りを見ていると「あー!」と

自分の何かが壊れてすぐに気づきが訪れます。

しかし、自分の事については気づきが非常に遅いのです。

(できるだけ多くの人が居る場で、それぞれの違いを知るのが早い。と、

そらさんが仰っていた意味が解り始めました。)

 

 

少なくとも、その場でクリアにはなりませんでした。

もや~っとして、モヤモヤを抱えたまま帰ります。

 

その後、また他の方のやり取りを聞いて

雷に撃たれたように「!」となる事もある、

ならない事もある。(笑)

その繰り返しでした。

 

 

最終日の前日の夜、

「これも違った。これでもないらしい。

 それじゃ何もできないじゃん。どうするの私?」と

思った瞬間に、私の本質であろうと思われる主張が

深いところから出てきました。

 

 

その時、今まで私の人生のあらゆる場面で自分がやってきたことが、

一瞬で腑に落ちました。

(ヘレンケラーが水を理解した時。初めて衛星放送が受信されたとき。

きっとこういうトーンの気持ちだったに違いない……)

 

 

そこから、

私の人生のイベントや

その時々の判断に対する反応が変わったと思います。

 

私も周囲も何も変わってはいません。でも

以前よりずっと、私は私自身と上手くやっていけるようになったと感じます。

 

 

一つ確信しているのは、事の大小にかかわらず

現実(リアル)はチープなものではないという事です。

現実として目の前に起こる事は、

全力で私達に何かを問いかけているのだと思います。

 

私が人生に何かを起こしてきた…というよりも

人生の方が私に強烈に問いかけてきているのだと感じました。

 

人生ってホント、一瞬一瞬がギフトなのだと今では解ります。

 

 

叡智のバトンで知った事は、そこで終わりではありません。

 

終わってからが、ようやくスタートかな…と。

その後の日々は日常で起こる現実の中で、何度もバトンでの事を思い出しています。

 

その度に今まで握っていた価値観が壊れ、

自分が再合成される感覚になります。今のところはその繰り返しです。

 

人生は、壮大なアートだと思います。

自分だけでなく、あらゆる人と物事が美しく関わりあって

織り込まれているタペストリーのようです。

 

そらさん、素晴らしいギフトをありがとうございました!

叡智のバトン、また何度でも受けたいと思います!

 

 

Reiko Yasukochi

何かに気付き始めているようで、そこからが進まない。

その“何か”が明確ではない。

確信にまで至らない…

 

わたしはこれまで34年間生きてきた人生の中で、

心も体も苦しみ、傷付いた経験を幾度も乗り越えてきた。

生と死の狭間に立っていた時期も幾度も乗り越えてきた。

人に裏切られ、傷付き、そのような経験も幾度も乗り越えてきた。

 

二十歳の時、これまでの人生で忘れられない苦しく悲しい経験をした。

灰人なった。

 

本気で死のうと思っていた。

本気で死のうとした。

縁あって繋いだ命。

 

それからわたしはスピリチュアルに走り、

独自で学び、そのような力のある方のところへ

何か問題がある度に頼っていた。

10年間の間に4、5回くらい頼った。

 

あの人がどう思っていようと、未来が分かろうと、

《自分》が気付かなければそれは繰り返してしまう。

恩師と恩師を通して出逢った新たな恩師たちのお陰で気付き始めた。

 

スピリチュアル、引き寄せの法則、カルマの法則…

それ以前の ──《自分》というものへの気づき。

 

生まれ変わっても変わることのない

《自分》だけがもつ【本質】

《自分だけの本質》

 

── 《自分だけのオリジナルな人生》を生きているということ。

 

 

 

去年の12月26日にわたしは山本博さん(そらさん)に逢った。

気付き始めているであろう“何か”を明確にしたかったから。

そして今のわたしは

とても幸せな毎日を生きている。

 

悩みなど一つもない。

ただ、その“何か”が知りたくて、明確にしたくて、確信したくて…

わたしはそらさんに逢った。

 

 

そらさんは本当に一人の方の求めで、

交通費も宿泊費も一切もらわずに、全国を飛び回っている。

そらさんは本当に分割でのお支払いもオッケー。

1000円からの分割でも、数ヵ月後からの分割でも…

そらさんは《お金》というものにとらわれておらず、

この世の方ではないみたいに感じた。

(そらさんに失礼かな?w)

神様のような人だ。(特別な人ではなくってw)

 

わたしはそらさんにお逢いして、

生まれてすぐからわたしが歩んできた34年間の人生の

縺れていた糸が綺麗に、真っ直ぐに繋がった。

『わたしの本質がそうであったから、その出来事があったのだ…』

『これで良かったんだ…』

と。

わたしはそらさんに逢って、人への批判、人への否定…

それらがすべて消えた。

そして、《自己否定》さえも…

 

 

見えるモノ、コト、ヒト

すべてがより新鮮で、輝いていて、美しく尊いものに変わっていった──

わたしの見えている世界までもが変わっていった。

 

そらさんに個人セッションでお逢いしたあと見た平尾駅のなんてない照明さえも、

美しく心動かされ、感動した。

 

わたしはわたしが出逢うすべての方の

心の苦しみを取り除きたいと強く思っている。

その方を心から癒したいと思っている。

その方のその方だけの《幸せなオリジナルな人生》を歩んで欲しいと願っている。

私自身がより深まっていくために、

わたしはそらさんに《本質的な叡智のバトン》を

福岡で開催して欲しいと希望を伝えた。

そして、そらさんはすぐに動いてくださった。

出入り自由で皆さんの都合がつく時間に、可能な時に訪れては深めていく。

わたしは今回、バトンには初めての参加になります。

より深めていき、一人でも多くの方の手助けができますように。

新たな自分と新たな友と呼べる方に出逢えることを楽しみにしております。

みんなにそらさんに逢って欲しい。

今いる世界が変わるから^^

 

変わる…というより、今すでにあるものに気付いていく。

《自分》というものに気付いていく──

 

笑顔溢れる幸せいっぱいの人生になりますように^^

興味のある方はそらさんとFacebookでお友だちになってください。

そらさんには制限がありませんから^^ 」

 

Ayumi Ohmizuさん

そらさんとの出会いは随分前ですが、

お話しをちゃんとお聞きしたのは2年半前のこと。

その時「私が聞きたかったのはこれだ。」という

永年探し求めてきたものへの確信のようなものを感じました。

今思えば、そらさんの話を聞くまでの

わたしは正解を探して彷徨うジプシー。

とはいえ、答えを求めるジプシーのような状態でもなく

自分の中にあるもやっとしたものを

取り除いて何とか自分を見つけたい…そんな感じだったと思います。

答えを教えてもらおうとしていなかったからこそ

そらさんの話が私の中を照らしてくれたようでした。

 

人生のことを知りたくて知りたくて

次から次へと渡り歩いて...

でもどれも正解とは思えなかった過去。

そんな中、出会ったそらさんのお話。

とにかく夢中でした。

何度も何度も話を聞いているうちに、自然と、

自分の人生について、自分自身に問いかけていました。

『わたしの本質が求める人生へ』

昨年、わたしに様々な出来事が起こりました。

私自身に訪れたことも、友人などに訪れたことも…

その様々な目の前に起こる現実(リアル)が

私に訴えかけてくる。

きっと、今までも訪れていたことでしょうけれど

出来事がなぜ訪れているのかに、気がつけるようになったからでしょう。

 

「さあ、この人生であなたは何を選択しますか?」と。

 

その連続に

「今のまま、これをやっていても仕方がない」と

人生を愉しむために、人生の舵をとっていました。

 

自分の人生を信じて、思う道へ進むしかない。

その時のわたしには他の選択肢はありませんでした。

今年に入り時間をとり

本質的な叡智のバトンで集中的に深めています。

 

今ならわかります。

恐れはあったけど、これまでの自分のままでいる方がよっぽど怖い。

変わらないという選択の先にあるものは想像がついてしまうから。

一歩踏み出した今、自分自身で全てを選択している実感があります。

わたしの本質が求める人生を歩み始めた感覚とともに。

 

 

***

 

 

関西・出雲の本質的な叡智のバトン参加して思うのは…

感動するくらい、みんな良い人たちばっかりだってこと!

自分自身を知って、本当の意味で正しさが外れた人たちは、

こんなにも優しいのか…

それぞれに違い、同じところなど何もない…ということを

体験した人たちと過ごすひと時は…

これほどまでに…愉しいのか。

求められることなく関われる関係は…

こんなにも幸せなんだな…。

私は、今までの人生で

多くの素敵な方々や友達に恵まれていたにも関わらず

経験したことがないほどに…

幸せな繋がりを今、肌で感じています。

 

そんな素敵な本質の方たちと

本質的な繋がりが広がっていくことが、嬉しくて嬉しくて。

その方を感じる時、わたしはこの人生でほんとうに…良かったと感じています。

 

たとえ逢っていなくても…

言葉なんてなくても…

そしてその方の人生を愉しみにしているわたしがいます。

 

本来の人との関係性とは、

本当はこういうことなんだと思います。

考え方なんかではなく、実体験が感じさせてくれること。

 

わたしは人生で

いつもいつもずっと…

この繋がりを求めてきた気がします。

 

この社会で疲れ果てたなら

想い合える人がいることを思い出して欲しい。

居場所のない寂しさを感じたなら

幸せで豊かな本質的な繋がりを思い出して欲しい。

わたしは、いつ、どこにいても、なにをしていても、

みんなの幸せを祈っています。

 

Setsuko

私も周りの環境のせいにしていた頃がありました。

 

家庭環境や、家族構成…

家がこんなでなければ…親がこんなでなければ…

私は、もう少し違ったはずなのに…。

周りと比べては、なかなかその渦から抜けられませんでした。

年月を経た今、思うのは

全くと言ってよいほどに、影響を受けていなかったこと。

笑いこけるほど、受けていませんでした。

人に話せば、

『よく生きてこれたね』

『すごい複雑な家庭環境だね』と驚かれることも多々あります。

確かに、母子家庭での生活の中での様々な事柄、

引っ越しも多かったり、いろんなことがありました。

学生時代も、大人になってからも、なんだか周りと違和感を感じる、なじめない。

ですが、そんな中での環境にいながらでも、影響を受けようがないほどに、いつでも私らしく生きていたのです。

その私だからこその環境だったのでしょう。

その頃の私には、毎日こんなに笑って過ごせる日が訪れるとは思えなかった。

ですが、自分を認めれば認めるほどに、自己否定は薄くなり、何かを処理しなければいけないという感覚も薄くなってきました。

よりハッキリと自分という存在を感じるようになりました。

つまらないと思っていた自分の人生が、豊かに感じるようになりました。

いつでも自分らしい選択をし、生きている。

そこには自分らしい想いのうえでの選択があることを知りました。。。

保科 ゆか

この記事は『自分で抱え過ぎてしまった人にシェアしたいと思います。』

 

 

『鎖の解放』

 

人前で激しく泣いたのは赤ん坊以来、自分でびっくりした。

衝動でそこへ行ったのは確かだけれど、そんな展開を想像していなかった。

13日の合宿の間の2日間、行けるタイミングで向かった、

そらさんの「本質的な叡智のバトン合宿」

東京でも逢える機会はあるけれど、今行きたいという衝動に従って新潟へ出向き、

そこで出逢い、縁ある方達と繋がりました。

 

どうして突然、そらさんの意識と繋がったかは省くけれど導かれるように行きました。

何かを求め頼った感覚でコンタクトをとったのは私の真実だけど、

周りの人から見たら、初対面で新潟まで来ることが勇気ある行動力と映るらしく

自分にとって苦でない普通のことが普通でない、その一つを改めて知りました。

 

そして、どこまでが自分の選択していることだかわからないほどに

自分の衝動や人との繋がりから続くご縁と自分のストーリー、

不思議な世界を体験しています。

 

 

ここで体験したことは、一生記憶に残るもので、

その場にいた人たちの笑顔も忘れられません。

 

今まで自分のことをおかしいと思う記憶、恥ずかしいこと、許せないこと、

トラブルだらけだったこと、ネガティブに映る体験は自分しか知らないことで

なんとかしないといけないことだと思っていました。

 

 

自分の選択してきたことだと口にしても、

自分も相手も悪くないとつじつまを合わせようとしても、

手紙を書いて癒そうとしても、

被害者意識ではなくなるよう誰かの言葉で埋めたとしても…

 

それは正そうとする限り、きっとずっと抱えていることになったと思います。

 

事実は変わらない、私も変わらない・・・

 

でもそこにあったのは自分の本質だったと認める言葉を口にした瞬間、

慟哭とともに否定が去っていきました。

 

 

私は “ 自分のことを好きでも嫌いでもないところ ” にいました。

 

 

そして、私が求めていた「自由」「自分と手をつなぐ」という

言葉の解釈が、がらりと変わりました。

 

「求めていた自由は違った、ただ一つの概念が自由を奪う」

 

「自分と手をつなぐ、それは為すことではなく知ることが先でした」

 

否定がない世界、入り口に入りました。

 

わかったようなわからないような、深いけどシンプルな世界です。

 

 

 

~余談~

そらさんに逢う前、4月に二人の女性とセッションする機会があり

そこでも揺さぶられ、自分を感じる意識は上がっていたように思います。

でも5月直前に開けなくてもいい箱をわざわざ開けてしまった時間があります。

相手の言葉の正しさを知りながら、自分の言葉の正しさを知りながら、平行線。

冷たいのか温かいのか判断せず、ただ流していく相手の言葉、

動揺しなくなったことに自分の心が壊れているのかと暗くなり堕ちました。

 

そらさんは想いは一方通行だといいます。

 

存在を認めるってことはあなたとわたしは違う、

だから分かり合えないに落ち着くというシンプルなこと。

 

ただ出逢えてありがとう、無駄な葛藤は永遠にさようならで幸せです。

 

*ブログより

 

 

そらからの余談♪

 

この方は、その後すぐに結婚されました♪

おはようございます。

出逢えた皆さま、ありがとうございました。

 

2日間一緒に過ごせた時間はあっという間でしたが、

皆さんの笑顔とともに強烈に記憶に残るものとなりました。

 

初めての参加、ただ衝動に従っただけで理由は後付けでした。

 

私はまた外に何を求めて行くのかという気持ちもありましたが、

今まで以上に想定外な時間となり、意識を覆すところへ導かれました。

 

開示できたことは限られたものでしたが、

自分について感覚として知ってしまったことは、

自分を恥じていた事柄に通じていて、良いとか悪いという感覚から、

ただそうだったんだと認められるところに変わりました。

 

好き嫌いを越えたものが確かにありました。

 

叡智のバトンは、

他人やそらさんの文章を事前にどれだけ読んでも

納得、理解しきれないであろう、体験が全てを見せてくれました。

 

衝撃だったこと。

言葉がある世界で言葉を疑うという姿勢について、

外側を信じていたら途方もない感じがしましたが、

無意識に信じていることから差をみて外れること、

それが何ももたないという在り方、自由になれるところなのかなと思いました。

 

自分にとって人の目を気にしなくなれることが自由だと思っていたので、

それは違うとわかってよかったです。

 

昨日は1日、マッサージの職場におりました。

いつもと変わらない態度、目の前にはできたこと、できなかったことあります。

自分の存在の前提が変わる、少なくとも刃を向けるでなく、健全な意識で在りました。

この思考は違うところにつかいながら、

為そうとせずにただ動いて見続けていきたいと思います。

 

選択肢は広がった、制限が減る、迷うけれど選べる。

 

またお逢いできるときを楽しみにしています。

ありがとうございます。

本当の人生のための終止符

 

2015-05-20 13:20:42

 

初めて今年の2/19から3日間大阪で開催の「本質的な叡智のバトン」に参加させていただきました。

ほとんど知らない方ですし大勢の前で話をすることが苦手だったので、

当初は参加させていただく気は全く無かったのですが、

「そらの会」→「叡智のバトン」→「個人セッション」と参加し、

*参加の順番などはありません。本質的な叡智のバトンは初めて深める方も多く参加されます。

 

その都度おとずれる、自分の中の凝り固まった考え方がほぐれていく感覚を信じて

重い腰をあげて参加させていただきました。

不安とはうってかわり、はじめましての方々ばかりでしたが

不思議とすぐに馴染んでいる自分がいました(笑)

 

 

他の皆様の話を聞かせていただき、

時間や日にちを重ねるにつれ、

自分が問題だと思っていたことが問題じゃなくなっていく感覚?

(問題に向き合ってもいませんし、問題解決方法のレクチャーなどはありません。)

 

 

それまでは…

今のままの自分では駄目だと思い、「変わらなくてはならない」等、

生まれかわって新しい自分になるんだと思っていたのですが、

 

今の自分に徐々にインストールしていくような感じで

問題は起こっていなかったことや

問題によって本質を知ってゆくということがあぶり出されてゆきます。

 

 

その時に訳が分からなかったとしても、

後に気づける体験を、今でも体感し続けています。

 

僕の中では「気がついたら意識が変わっていた。」とか

「気がついたら容量が増えていた。」というイメージです。

 

人を疑い、勝手に自分の中でジャッジしていて、生きるのも死ぬのも怖くて、

人の顔色ばかりうかがい、感情を押し殺しすぎて…

感情のないロボットのように、当たり障りのない日々を送り

ただ黙々と、カレンダーに「×」だけつけるように過ごしてた日々に

『本質的な叡智のバトン』は、終止符を打ってくれました。

 

 

そんな自分が今は、

自分の人生を楽しみに生きていける人間へとシフトできたのですから♪

僕自体まだまだこれからですが、自分の知らない間に価値観が外れ、

生きやすくなっていくという奇妙な体験はおすすめです。

 

答えを教えることなく、ただ見なくても良いような価値観を外し

依存させることなく、自分で気づける為に全く違う角度からの後押しをしてくれます。

 

目に見えないことは文章だけでは表現が難しいので

Facebookやブログの文章だけで読んで理解しようとしてしまった時期も自分にはありますが…

実際の「そら 山本 博さん」との向きあう時は

イメージとはまったく違う本質的な時を用意してくれます。

 

自分自身を探すために、様々なワークを体験しましたが

ここでの体験は、まったく違う体験であり

けれども、時が止まったような…時が数十年動いたような…

体験をさせてくれます。

 

是非とも「そら さん」をリアルで感じていただきたいと思います。

必要な方に届き続けますように…

 

井倉浩二

自分に起こっていたことがようやくわかりました。

前回の関西でのバトンの後にでてきた『相手を否定したくない』という言葉。

この言葉がでるのは、相手を否定しているからこそ。

 

わたしは人を否定している。

 

どうして否定しているのだろう。

思い起こすと、たぶんこういう事なんだと思う。

 

わたしはずっと父を許せなかった。

母が苦しんでいるのをみて許せなかった。

わたしに対しても、白いものも黒で通す。

何度かケンカをしたこともあったけど、

自分の気持ちを訴えても相手にされず

ただただ悲しい思いで泣くことしかできませんでした。

そして感情をぶつけた後の父の後処理はいつも母がやってくれいて、、、

母を困らせたくなくて、いつしか自分を抑えるようになった気がします。

 

そんなわたしにいつも寄り添ってくれていた母、

常にわたしの味方でいてくれた母は、わたしが若い時にガンで亡くなりました。

 

母が死んだのは父のせいだ。

1番大切で特別だった母を失った深い悲しみは癒えることはありませんでした。

 

その頃から人生とは一体何なんだろう、人は何のために生きるのだろうという事を考えるようになっていったように思います。

これも、私にとっては必要な事だったのでしょう。

 

許せなかった父との生活は、表面上は何もなくても心はいつも苦しかった。

しかし、何不自由なく育ててくれた父として、感謝する自分もいました。

そんな父を思いやる気持ちと、許せない気持ちが同居する、複雑な気持ちで暮らしていました。

家を出ることを考えた事もあるけど、父を残して家を出ることはできませんでした。

これも、今となっては、わたしの本質だからこその反応だと認めることができます。

 

そんな父も早くに亡くなり、わたしの気持ちは宙に浮いてしまった。

どこにも行き場のない複雑な感情。

それだけが残って苦しかった。

そして、この許せない気持ちは、自分に対してではなく

母に対しての父の態度だったんだと気づきました。

両親が亡くなり、この複雑な気持ちは時と共に薄らいでいきました。

 

実は兄に対しても複雑な気持ちを持っていました。

わたしがやっていることが気に食わず、殴られた事もあります。

歳も離れ体格の違う兄と、闘っても負けるのは目に見えている。

なるべく逆らわず、顔色をみながら穏便に暮らすようにしていました。

 

兄弟姉妹は、相続でも観たくない姿を見てしまうことになります。

さらに社会的な問題まで起こしてしまいます。

 

でも、みんな本当は優しい。わたしが幼い頃のあの優しかった兄弟姉妹をわたしは知っています。

 

こんな環境の中、争わず心穏やかにいてほしいといつも願っていました。

こころが凪いでいて欲しかった。笑っていて欲しかった。

わたしは大切な人(母)を守れるくらい強くなりたかった、、、そして冷静な自分もいました。

 

いつの頃からか、結局人間はどうしようもない生き物だと否定するようになったんだと思う。

相手は変えられないとあきらめるようになっていったのかもしれません。人は欲の前では変貌する。そして感じないように鈍化させた何か、硬く鍵をかけた何かがあるように思います。

 

思い起こすと、昔は救われない映画やドラマやニュースにフォーカスして社会に絶望していました。

恨むのは、本当はこの狂った社会。

(そういう社会があるからこそ、自分に向き合う事になるんだと今は思えますが。)

前回のバトンで、一気にこの時に戻ってしまった。

 

 

『みんなが私に持っている穏やかな印象の私は偽物』

 

 

きっと、これらのことが奥底にくすぶっていたんですね。

わたしはどこかで人を信用していない、相手を否定している。

そんな自分はロクデモナイ人間、それに気づいて苦しくなり自分自身を信じられなくなりました。

 

大人になり、何かに困ることなく生きていけるようになったけど、、、

価値あるもの、正解を探して、色々なものに目を向けて経験してきたけど、、、

いつもたどり着くのはそれには価値がない、正解はないんだという事でした。

 

そんな中でも、わたしは人に価値を見出してきた気がします。

そんな中だからこそなのかもしれません。

相手のキラッと輝く素敵な個性、

そらさんの言う本質に1番価値がある、相手のそれは信じられる、

それを発見ときの自分の感覚も信じられる。

だから、それを感じた時は、応援したくて自然に動いている自分がいます。

 

そうではない、損得感情、相手の都合(言い訳)、正しさ、などには価値がない、

それはこの社会がそうさせたものだからそこにはフォーカスせず

相手を傷つけないようにかわすようになった気がします。

 

もしかしたらわたしは、こんな狂った社会、欲にまみれたこの世の中を感じ、

そうではないものに価値を見出すために、それほど欲がなく生まれてきたのかもしれません。

 

人は弱い。

相手も弱い、そしてわたしも弱いんだ。

それをただ認めていけばいいんですね。

 

今回の本質的な叡智のバトンでは、わたしの中の何かが動きました。

それが何なのか最初は全くわからなかったけど、いまはわかる。

 

 

こんな酷いわたしでも、あたたかく迎えてくれる人がいる。

あなたはあなたのままでいいと言ってくれる。

信じて待っていてくれている。

だからこそ気づいて何かが動いたたんだと思う。

 

人はこんな風に安心して戻れる場所が必要なんですね。

わたしが、わたしに戻れる場所。

誰もが、わたしに戻れる場所。

 

 

そして今思うことは、わたしも誰かの希望の光になりたい。

相手を信じて待っていられるわたしになりたい。

いつどんな時も、相手の素敵な本質をみつけられるわたしでありたい。

傷ついた心を癒してあげられる人でありたい。

わたしらしく、そんなわたしでいれたら。

 

今回参加した本質的な叡智のバトンはとても、とても、幸せでした。

参加されている方の本質がストレートにでたときはいつもより輝きが増してみえて、

嬉しくて、ただただ幸せでした。

 

そんな風に気付けたのは、そらさんをはじめ、一緒に深め合う友がいてくれたから。

本当にありがとう。

 

関西にまた訪れてください。

そもそも、そらさんの言う叡智ってなんだろう??

 

うーん。やっぱりうまく説明出来ません。

 

言葉が見つからない。

 

ただ私自身が腑に落ちた事なら語る事が出来ます。

 

叡智を知る事で多くの方が楽になる、

 

自分自身を責める必要がなくなる、

 

そう想うから、私の人生を語ります。

 

 

「全ての出来事は自分の本質を知る為にある。人生は完璧である。」

 

 

だいぶ抽象的なんだけれどもね、

 

私達は、目の前に何か出来事が起きた時、

 

「気づき」があるってよく言うでしょ。

 

大概の方は、そこから自分を訂正しようとするのね。

 

自分のこういうところは治した方がいい。

 

自分が変わればいい。

 

自分を変えていく事が「気づき」だという観点なんだ。

 

でも、変わらなきゃと思う背景には、

 

今の自分じゃダメだって思ってるって事。

 

 

自分のそのままを認められない限り、

 

承認欲求でしか進む事は出来なくなっちゃうんだ。

 

誰かに認められる様に。って。

 

 

 

はたまた、

何かを変えたら自分で自分自身の事を認められるんじゃないかって期待して。

 

 

 

それは、どんどん自分の本質から遠ざかる結果になる。

 

 

 

目の前の出来事から気づくべき事は、

 

何に自分が反応したのか。

 

何を想って、そう行動してしまったのか。

 

そこに、あなただけの本質、個性の様なものが隠れているの。

 

それに気がつく為に、全ての出来事は起きています。

 

 

 

 

 

例えば私はね、人に対してほとんど特別感がないの。

 

子供の頃から、誰かだけが特別に大事な友達って思った事もないし、

 

家庭環境においては、母が再婚し義父という他人と暮らす事にも、全く違和感を感じなかったし、

 

他人の親をお父さんお母さんと呼び、平気で甘えていたり。

 

保育園に勤務していた時、園児と身内の子供に何の差も感じなかった。

 

子供は皆、平等に可愛いと感じた。

 

 

そして、私は師を持たない。

 

学ぶべき事を学ぶ人とは感じるが、

 

特別な師だ。と崇拝する事はない。

 

対等な人間だと思っているのでね。

 

 

とにかく特別を感じる人が居ないのだ。

 

けれども人間なので、時に執着して依存してしまった事もあるけれど、

 

最終的には自分で気がついて、またこのスタンスに戻る。

 

 

この出来事に一体何が隠れているのか…

 

 

私のベースには、「人に対して差がない」というものがあるのが分かります。

 

決して人を特別に大切に思えない冷たい人間なのではないのです。

 

 

その事で友人から「貴方と居ると淋しくなる」と言われ、

 

思い悩んだ時期もあり、

 

無理矢理に特別を作った事もあります。

 

 

正確には、特別なんだよと匂わせる演技をしてみたり、言葉に出したりした事もありました。

 

これが自己の訂正です。

 

私は冷たい人間なのだと、自分を責めていました。

 

 

 

 

 

 

そして25歳の時、

 

私は犯罪に巻き込まれ、身体を傷付けられた事がありました。

 

両親は泣き続け、許せない許せないと警察に突き出せと言いました。

 

しかし、私の中に恨むという気持ちはありませんでした。

 

どこかで「人間だからね…。しょうがないよ」と相手を責める気持ちにはなりませんでした。

 

 

 

実はこの出来事こそ、

 

私に最大の気づきを与えてくれました。

 

当時の私は、やっとの事で就職先が決まり、自分でも頑張っているという自負がありました。

 

頑張っていればいい事がある。

 

そう信じて毎日頑張っていました。

 

その矢先の出来事。

 

 

やり場のない怒りは、気がつくと目に見えぬ神に向かっていました。

 

「こんなに頑張っている私が何でこんな目にあわなきゃいけないんだ!

神様のバカヤロウ。お前なんてもう信じない!」

 

こう神様を罵ったのを今でもハッキリと覚えています。

 

と同時に、私は神様という目に見えない存在をこんなにも信じていたんだ。

 

という事に気がつきました。

 

 

 

誰の慰めも同情も必要としなかった私は、

 

療養中に1人ふらりと本屋へ行きました。

 

すると、一冊の本の背表紙に目を奪われました。

 

そこには

 

「全ての出来事には意味がある」と書かれていて、

 

そこでもまた、

 

「ふざけんな!この出来事に何の意味があるんだよ!」と、

 

半ばお怒りモードでこの本を手にしたのです。

 

意味があるのなら教えて欲しい。

 

何故、私がこんな目にあわなければならなかったのか。

 

私を納得させてくれよ。。。

 

 

すがる様な気持ちで、

 

私は答えを探し出す人生を歩き始めました。

 

そこから大きく私の視点は変わり始め、

 

人生観は全く違うものとなりました。

 

 

 

最大の辛い出来事は、

 

最高のギフトとなりました。

 

 

 

そして、この出来事からも私の本質が観えてきます。

 

犯罪者をしょうがないと思ってしまう性分には、

 

人間だもの。

 

一つの命だもの。

 

 

黒も白も含めて、人間を受け入れている私が観えてきます。

 

母に再婚の相談を受けた時も、

 

幼いながら、母親としてではなく、

 

1人の女性としての幸せを願い、承諾しました。

 

子供の私にしたら嫌でしたよ~。

 

母を取られるみたいで。

 

でも、一つの命として…と、

 

その時も本質から想ったのでしょう。

 

 

この本質は、飼い猫に対してまで表れていて、

 

私は真剣にランの人生においての幸せについて悩んでしまうのでした。

 

一つの命として生を受けて、

 

この子がこの子らしく生きる為に、

 

私は一体どうしてあげたら良いのだろうか…

 

そんなことを そらさんに真剣に相談したら、

 

「 本質だね~(笑) 」と笑われました。

 

 

 

そして今、

 

私は人に対して差を感じないから、

 

誰でも招き入れる事が出来ます。

 

誰にでも触れる事が出来ます。

 

 

 

そして、一つの命として…と想うから、

 

困っている人がいるのならケアしたいと思います。

 

その方が自分らしく生きれる様にと願います。

 

 

その為なら、自分に出来る事はなんでもやっちゃえ…と思えるのです。

 

本質からの想いでやることには無理がありません。

 

 

だって生まれてから今まで、あたりまえのこととして感じている想いですから。

 

自分にとってのあたりまえ = 本質

 

あたりまえ過ぎて自分1人では気がつきにくいのです。

 

他者との違いを知り、初めて観えてくるもの。

 

私のあたりまえ(本質)

 

 

 

 

全ては、今に繋がっています。

 

私は今、とても幸せです。

 

その幸せは、胸の踊る様な抑揚感のあるものではなく、

 

とても穏やかな静かな幸せです。

 

 

 

自分を訂正する事など どこにも無く、

 

過去を後悔する必要もありません。

 

 

 

ずーっと本質で生きていたし、

 

これからもそうでしか生きられないでしょう。

 

人生のストーリーは、

 

私にそれを気づかせる為に完璧に動いていた。

 

私の記憶に残る、全ての印象的な出来事の中には、

 

私の本質が色濃く現れていた。

 

 

これからの人生もきっと、

 

完璧なストーリーとして続いてゆく。

 

ただただ どうなっていくのか、

 

私は、愉しみで仕方がありません。

 

 

このストーリーは、私が特別だから起きた訳ではありません。

 

皆さんにも同じ様に本質があり、

 

皆さんの人生も完璧に動いているのです。

 

それを知るのが叡智です。

 

 

私は多くの方に、叡智に触れて欲しいと願います。

 

そして、皆が自分自身を認め、

 

自分の本質を知り、

 

それを表現しながら人生を歩いていく姿を見たいと思います。

 

 

その方の命が輝くこと。

 

それが 私の本質…一つの命として…の部分の

 

願いなのだと思います。

 

 

 

 

*前回の咲屋での《本質的な叡智のバトン》風景です。

写真から感じ取ってくれたなら…

http://ameblo.jp/sakuya-yoga/entry-12025564257.html

 

 

 

 

 

私の大好きなそらさんの記事(大好きなそらさん…ではなく、大好きな記事です。笑)

 

愛は、行為ではありません。

http://s.ameblo.jp/sora-ni/entry-11973946470.html

 

言葉など要らない関係性が私達を幸せに出来る。私について。

http://s.ameblo.jp/sora-ni/entry-11972879289.html

 

* Maikoのブログ *

http://ameblo.jp/sakuya-yoga/

今年もあと数時間で終わりですね~。

今年は1月に母との別れがありました。

 

そのあとは自分の人生をどういう方向で進んでいくか試行錯誤でいろんな学びをしたり、

人と会ったりしまくり、

5月にそらさんと出会い葛藤の無い人生歩もうと、

そして自分の本質的な個性に気づき、目からウロコの状態になりました。

そして自分の進む方向が見えて、仕事にも人生にも学びを活かしていこうと決めました。

 

2005年に出会った葉祥明さんの絵本「リトル・ツリー」。

本をパラパラめくった途端に「これ!音楽入れて作品にしなくちゃ!」って思って

ピッタリの作曲者や脚本家に出会い、最初はミュージカル、そして音楽朗読劇、

学生の英語劇にまで発展して上演する機会をいただき感動してくださる皆様がいて、

なんと10年も続いてきました。

 

テーマは「わたしは、わたしになる」

 

今年そらさんに出会った事で

「あ~、わたしがわたしになる、というのは本来こういうことだったんだ!!!!」と気づき、

わたし自身の人生、両親とも日本人なのにハーフのような顔と体格で生まれ、

子供なのに大人に見られたり、母がいつも私を批判してきた事で

「わたしがわたしじゃいけないの?」って

思ってきたことも思い出しました。

あ~、だから私がこの作品を作ることになったのか・・・

今までの私の人生が完璧になっていたのだと思わざるを得無くなりました。

 

2014年に学校公演が出来るようにと提案いただき、

新たに台本を改定して音楽の編曲も子供も楽しめるように変更して、

やっと2016年から少しづつ上演出来るようにしていきますので、

応援や協力していただける方がいらっしゃると嬉しいです。

 

母が他界した為、喪中になりますので、新年のご挨拶は控えさせていただきますね。

 

今年お世話になった皆様、本当にありがとうございました。

全ての人が自分として人生を送られることを願って!

良い年をお迎えくださいませ~♪

 

白峰 優梨子さんのfacebookより

http://she-friends.com/profile.html

生命の選択。

 

 

私がリアルに感じたこと。

 

それは、みゆが私の元に来る事は完璧に決まって居たということ。

 

みゆには先天性の病があります。

 

私は、病気が分かった時にとにかく自分を責めた。私のせいでみゆを不幸にしたと思いました。

様々な検査をして病名が出た時に私が感じた事。

 

もう治らないと言う絶望感。

 

もう1つはあまりに壮大な病名にもはや私1人の影響力でこの子はここに居るのではない事を知りました。

 

人間1人の生命の選択。

この選択にたかだか私1人の采配では決めれない、私にそんな影響力はないと言う事を突き付けられたような気がします。

 

 

妊娠前から食事も身体にも気をつけてきた。

それこそ神経質なくらいに。

 

でも生まれた子は病気だった。。。

 

タバコ吸っても、飲酒しても、薬飲んでも、変なもん食べても健常な子を産む人もいるの。

 

もちろん、体の管理は大切だと思う。

それは我が子への思いやりでもある。

 

ただね、伝えたいの、病気の子を産んだお母さんに。

 

貴方の責任だけでその子はこの世には来ていない事を。

 

貴方の人の選択で決めれるほど、生命はちっちゃくない。

もっと壮大なものに動かされていると私は思う。

 

みゆの病名は私がこの事を腑に落とすのに必要でした。

でも、私達が特別な訳ではなく、皆の生命が壮大な力の元に生まれてるような気が私はしています。

 

これから、私達親子は様々な所に出ていきます。

 

文章では伝えきれない事を伝えにいきます。

 

少しでも自分を責めてる人が減らす事が出来たなら、そんな幸せな事はない

 

 

2015-11-18 Shioko

https://ameblo.jp/2504777/

拝啓 菊の花が香る季節となりました。

 

そらさん、叡智のバトンでは、大変お世話になりました。

本日は、私が昨日の叡智のバトンを受講し、そこで思ったことをお手紙にさせていただきました。

お読みいただけたら幸いです。

 

私は、そらさんに『いつも他人の顔色を伺いながら生きてきたね』

そう言われた時…

そのことを自分で責めていたことを気づきました。

 

他人の顔色や感情次第で振り回されて生きる「嫌な人間なのだ」ということに

自分自身のレッテルを貼っていたのです。

 

他者に自分を合わせるような、肝の小さい人間なのだと…

 

 

それに反して…

女らしさを表現することは、男性に媚を売っているようで嫌だからと…

《自分の》女らしさを否定し、

人を想う行動を取っても、まだまだ自分が出来ることはあるはずだ、なんて

未熟で劣っているのだろうと…《自分の》中の“いい人”の部分を否定し、

《自虐》することで、

自分自身が貼った “ 嫌な自分 ” というレッテルの証明に

必死だったことに気づきました。

 

 

 

でも、他人のご機嫌とりのような行動の奥には、

私が他者を想う想いや、他者に幸せになって欲しいという願いが

根本にあったのだということに気づき、

何の問題もなく、愛を表現してきただけのことだということを見つめることが出来ました。

 

そして、自分を簡単に犠牲にしてしまうことが

できる本質だからこそ…それは行えたのだということを

あたたかく感じることもできました。

 

もっと女らしい人、素晴らしい人格者でなければならない必要がある…

そんな想いが強かったからこそ、

自分の存在も、想いで生きてきた自分がいたことも…

素直に認めることが出来なかった。

 

ここにも、想いの強さは表れていたのだと…。

 

 

小さい頃から、表面上はリーダー的な役割を演じ、

自由で大らかな人間を演じ、

明るく自虐ネタで笑いを取りながらも自分を卑下することにより、

もっと完璧な自身がいるのではないかとの欠乏感を

私は満たしていました。

 

 

その《明るい自虐》が…

自分の価値を曖昧にし、

自分自身と向き合うことからも遠ざけ

気づかせないようにしていたようです。

 

 

 

こうして…気がついてゆくと

自分に枠を設定しているのは自分自身であるとは思っていても、

その枠というもの…に気づくことは、

本当に難しいな…と正直いつも思っております。

 

シンプルな意識が何なのか…

それに、自ら気づくことでしか分からない世界…

 

叡智は偉大で素晴らしいもの

 

でも『叡智』は、偉大とも、素晴らしいとも、そういうジャッジすら出来ない

何もない、すべての方が持っているもの

 

何もない…もの《シンプルな意識》ただ…想いのようなもの

 

言葉に出来るはずもないもの…を

そらさんが、一人一人の意識を触れながら伝え後押ししている…その想い…

叡智を伝えるも、ツールでしかなく…一つの想いを軸に生きている…

 

この世に生まれ生きてきたからには、死ぬまで生きるしかない

自分の軸をもとにその想いを軸に生きましょう

 

それだけのことを伝え後押ししている

…だけなんだな… そらさんは…

 

そらさんは、凄いこと・とてつもないことをしているように見えていたけれど

ただ、そらさんは、

ご自分の人生を生き切るために行動し生きているだけなんだな…

ただ、それだけなんだ…

 

それに気づきました。

 

 

 

 

 

 

私は

《無条件の愛》を軸に生きます。

 

今まで生きてきて…

明るい自虐や女性性や優しさの否定…

どのような状況においても、どのような環境においても、

他者の幸せを基準に生きて来ました。

 

他者が喜び楽しんでくれるかを意識し、幸せになって欲しいとの想いで。

 

 

でも、私が関わることや与えることで、

他者の何かを変えられたか…幸せに出来たかといえば

 

いまだ…何も影響もできていません。

 

 

 

私は影響を与えなくとも

その人その人が、各々の幸せの中で生きてくれればいい。

 

 

今までの私は他者に依存していたのです。

今までの私は他者をコントロールしようと思っていたのです。

 

 

 

愛は一方通行

 

 

 

みんなが幸せになりますように

 

私は愛の奉仕者として生きて生きます。

 

そらさん、

私は幸せですね。

心からそう思います。

 

 

 

 

他者が自分の幸せを自ら認めることが出来るよう、私は歩み出したいと思います。

 

誰もが自ら作り上げてしまった檻の中で、自分がカゴの中の鳥だと思いませんように。

 

自由を外に求め、自分自身を縛りつけているのは自分自身なのだとということに

気づけますように。

誰もが自分自身が作った檻に気づけますように…。

 

 

今後とも叡智を学び自らがツールとなり、

人々が自分に課してしまった呪縛から解放できるお手伝いが出来ることを意図して

シンプルな意識を深めてゆきたいと思います。

 

そらさん、ありがとうございました。

そして、これからも宜しくお願い致します。

 

敬具